おかげさまで17周年!今年もソンコ・マージュ コンサート開催します!
2017年 06月 01日
あっという間に昨年のコンサートから丸一年、ここへの書き込みも一年ぶりになってしまいました。
3年前(2014年)の東京パソコンスクール開校14周年には、ちょうどWindows PCのOS XPの生徒さんたちが、全員無事にWindows8に乗り換えたと書いています。その頃まだ20%も残っていたVistaの方たちが、この4月のサポート切れを期して、こんどは (秋まではサポートのある2007使用の) お一人を残して皆さんWindows8.1や10になりました。
82歳になられたソンコ・マージュさんを、昨年に続いて迎えられることを嬉しく思います。
今年も変わらぬあの”渋い” 声で、魂の歌とどこか哀しみを抱えたギターと、弱い者たちへの応援歌のような「毒舌」と笑いのお喋りで、私たちに元気を与えてくださることと思います。
以下はソンコさんのHP(http://sonkomayu.com/bio/index.html)からです。
下のソンコさんの文章に続く、村上龍 氏たちがソンコ・マージュに捧げている名文も、ぜひじっくりとお読みくださいますようにお願いいたします。
師ユパンキが私に残していってくれたものは、愛に透徹した全人類的と思われる音楽と人間の平等性、それに寛容であった。そのことから私はユパンキのギターの弟子というより、ヒューマニズムの弟子と言ったほうが適切かも知れない。
(略)
・・・ところでユパンキは「風景」という言葉をよく使った。風景のなかで最も素晴らしいのは人間だとも言った。確かに人間は自然が創り出したもののうちでは傑作ではあろう。その自覚は大事である。しかし人間が自然のなかのひとりである自覚を忘れてはならない。だから人間が多くの自然を支配することは人間自身を支配するのに等しい行為だ。今や人間は尊い地球の生命を一瞬に奪うことすら出来る。この人間世界に慄然とすべきだ。
ユパンキは偉大な芸術家である前に、人間を含む「自然への畏敬」を叫び続けたひとりの人間でもあった。
(略)
・・・私に遺したユパンキの言葉がある。
「ギターは心の前に置いて弾かねばならぬ唯一の楽器だ。
だから深い親愛の声を持っている」
日本人はそれでなくても遠慮がちで(?)、自分の正直な考えを人前では言わない(言えない)人たちが多いのに、一昨年ぐらいからメディアも社会の木鐸たるその役割や責任を果たしているとはいえず、またとみに「忖度」ばやりで自粛・委縮する人間が多くなっている昨今、せめて、熊さん、八っつあんたちの長屋談義のような、力ない者たちへの人間愛に溢れた、ソンコさんの歯に衣着せぬ物言いで笑い飛ばしたいものです。
最近TVで、「もりかけ」というのを聞いて、蕎麦屋さんのハナシかと思いきや、例の森友学園と加計学園のことだそうです。確かにこの2つの問題は、一国の総理大臣が問題のカギになっている点をはじめ、何かいろいろな面で似ていますね。
登場する中心人物がそれぞれに個性的で対照的なのが面白いといったら失礼になりますが、この方たちは熊さん、八っつあんの世界からいうと決して弱者とはいえないと思います。しかしこの人たちが時に「弱者」に見えるほど、国の「権力」の強大さを思い知らされる事件ではあります。
「忖度社会」などという新語も出てきてしまいましたが、つい数ヶ月前まで日本の官僚のトップの立場にあった人が、公然と「あったものをなかったというわけにはいかない」と言って証言したのには驚きました。
ことなかれ主義で保身を考えるなら、敢えて発言する必要はなかったはずですから、勇気がある人だと言う人もいれば、なぜ現役の時に言わずに今ごろ言うのか、地位を追われた意趣返しだ、という人もいます。
しかし、同じ時代に同じ文部科学省の官僚だったという人に言わせると、現役の時には上の立場に居れば居るほど組織のこと、組織の部下たちへの迷惑を考えると言えない、退職した今だからこそ言わなくてはならないと考えたのではないか、とのことでした。ご本人 前川喜平氏は他のインタビューに答えて、退職して天下りもしていないので、最も自由を手にした今だからこそ、現役時代になすべきと思ってもできなかったことをやる、というようなことを述べていました。
この前川氏の会見の前後に某大新聞や官房長官が、この人物の人格を誹謗する記事を書き発言したのは、森友学園の籠池氏に関してとった手法(それも成功していないのだが)と似ていて、何か日本の「国家の品格」が問われるような恥ずかしい気がします。
我々はその本当の人となりを、メディアを通してしか知らないわけですから、勝手にその人を決めつけるのは実は怖いことだと思います。しかしながら(顔の好き嫌いは別として(^-^;))じっと見ていると、一方でテレビというメディアは、けっこうその人の素顔や本性を垣間見せてくれるものです。悪い人間でも、「ここは嘘じゃないな…」などとです。
問題は、たとえその人柄がどうであれ、個人的には「嫌な奴」だったとしても、政治的な問題になっていることとは無関係なはずです。それを国の最高権力の座にある人が人格的な問題にすりかえて言うのは、何か幼稚な、品の悪いやり方だと言わざるを得ません。我々国民をそういうレベルだと見ているということにもなります。
「共謀罪」も、主務大臣である法務大臣自身が内容を理解していないとしか思えない答弁ぶりで、歴史を知っている"一般市民"は、よけいに不安になったままで衆議院を通ってしまいました。
5/28付毎日新聞の「時代の風」という欄で藻谷浩介氏が、「『2020年のオリンピックに向けて』という標語の下、共謀罪が制定されようとしている。他方、同じ標語の下に厚生労働省が提案した飲食店内の全面禁煙は自民党内から激しい反対を受けている。」と、その矛盾を書いています。
なぜか安倍首相は同様に、「2020年のオリンピックまでに」9条を含む憲法を変えたいと、独断的に発言して自民党内でも反論が出ているようですが、何でもオリンピックを引き合いに出すのはいかがなものでしょう?と思います。
一次阿部内閣の時には悪評にまみれてあえなく倒れた時とは対照的に、最近は野党と比べて「支持率が高いのだから」と、二言目には国会などで公言して自信に溢れているようですが、確かに「高い支持率」を与えているのは私たち国民であることは間違いありませんね…。
…さて気を取り直して、17周年のコンサートのご案内に戻ります。
7月1日(土)東京パソコンスクールの教室の1軒おいてお隣の”ミタカノイス”にて、16:30開演です。
ちなみにこのミタカノイスという部屋は実に不思議な奥深い空間で、ある時は有機野菜の八百屋やさん、ある時は印刷やさんでプログラマー、またある時は街の保健室・・・と私が陰ながらお噂している「宮沢賢治の”雨ニモ負ケズ”のような人」で、これまた弱い人たちの味方がそのテーマかと思われる人がやっている場所なのです。
この不思議な空間に、どうぞ一度おいでになってみてください。
mitakayoko
3年前(2014年)の東京パソコンスクール開校14周年には、ちょうどWindows PCのOS XPの生徒さんたちが、全員無事にWindows8に乗り換えたと書いています。その頃まだ20%も残っていたVistaの方たちが、この4月のサポート切れを期して、こんどは (秋まではサポートのある2007使用の) お一人を残して皆さんWindows8.1や10になりました。
82歳になられたソンコ・マージュさんを、昨年に続いて迎えられることを嬉しく思います。
今年も変わらぬあの”渋い” 声で、魂の歌とどこか哀しみを抱えたギターと、弱い者たちへの応援歌のような「毒舌」と笑いのお喋りで、私たちに元気を与えてくださることと思います。
以下はソンコさんのHP(http://sonkomayu.com/bio/index.html)からです。
下のソンコさんの文章に続く、村上龍 氏たちがソンコ・マージュに捧げている名文も、ぜひじっくりとお読みくださいますようにお願いいたします。
師ユパンキが私に残していってくれたものは、愛に透徹した全人類的と思われる音楽と人間の平等性、それに寛容であった。そのことから私はユパンキのギターの弟子というより、ヒューマニズムの弟子と言ったほうが適切かも知れない。
(略)
・・・ところでユパンキは「風景」という言葉をよく使った。風景のなかで最も素晴らしいのは人間だとも言った。確かに人間は自然が創り出したもののうちでは傑作ではあろう。その自覚は大事である。しかし人間が自然のなかのひとりである自覚を忘れてはならない。だから人間が多くの自然を支配することは人間自身を支配するのに等しい行為だ。今や人間は尊い地球の生命を一瞬に奪うことすら出来る。この人間世界に慄然とすべきだ。
ユパンキは偉大な芸術家である前に、人間を含む「自然への畏敬」を叫び続けたひとりの人間でもあった。
(略)
・・・私に遺したユパンキの言葉がある。
「ギターは心の前に置いて弾かねばならぬ唯一の楽器だ。
だから深い親愛の声を持っている」
日本人はそれでなくても遠慮がちで(?)、自分の正直な考えを人前では言わない(言えない)人たちが多いのに、一昨年ぐらいからメディアも社会の木鐸たるその役割や責任を果たしているとはいえず、またとみに「忖度」ばやりで自粛・委縮する人間が多くなっている昨今、せめて、熊さん、八っつあんたちの長屋談義のような、力ない者たちへの人間愛に溢れた、ソンコさんの歯に衣着せぬ物言いで笑い飛ばしたいものです。
最近TVで、「もりかけ」というのを聞いて、蕎麦屋さんのハナシかと思いきや、例の森友学園と加計学園のことだそうです。確かにこの2つの問題は、一国の総理大臣が問題のカギになっている点をはじめ、何かいろいろな面で似ていますね。
登場する中心人物がそれぞれに個性的で対照的なのが面白いといったら失礼になりますが、この方たちは熊さん、八っつあんの世界からいうと決して弱者とはいえないと思います。しかしこの人たちが時に「弱者」に見えるほど、国の「権力」の強大さを思い知らされる事件ではあります。
「忖度社会」などという新語も出てきてしまいましたが、つい数ヶ月前まで日本の官僚のトップの立場にあった人が、公然と「あったものをなかったというわけにはいかない」と言って証言したのには驚きました。
ことなかれ主義で保身を考えるなら、敢えて発言する必要はなかったはずですから、勇気がある人だと言う人もいれば、なぜ現役の時に言わずに今ごろ言うのか、地位を追われた意趣返しだ、という人もいます。
しかし、同じ時代に同じ文部科学省の官僚だったという人に言わせると、現役の時には上の立場に居れば居るほど組織のこと、組織の部下たちへの迷惑を考えると言えない、退職した今だからこそ言わなくてはならないと考えたのではないか、とのことでした。ご本人 前川喜平氏は他のインタビューに答えて、退職して天下りもしていないので、最も自由を手にした今だからこそ、現役時代になすべきと思ってもできなかったことをやる、というようなことを述べていました。
この前川氏の会見の前後に某大新聞や官房長官が、この人物の人格を誹謗する記事を書き発言したのは、森友学園の籠池氏に関してとった手法(それも成功していないのだが)と似ていて、何か日本の「国家の品格」が問われるような恥ずかしい気がします。
我々はその本当の人となりを、メディアを通してしか知らないわけですから、勝手にその人を決めつけるのは実は怖いことだと思います。しかしながら(顔の好き嫌いは別として(^-^;))じっと見ていると、一方でテレビというメディアは、けっこうその人の素顔や本性を垣間見せてくれるものです。悪い人間でも、「ここは嘘じゃないな…」などとです。
問題は、たとえその人柄がどうであれ、個人的には「嫌な奴」だったとしても、政治的な問題になっていることとは無関係なはずです。それを国の最高権力の座にある人が人格的な問題にすりかえて言うのは、何か幼稚な、品の悪いやり方だと言わざるを得ません。我々国民をそういうレベルだと見ているということにもなります。
「共謀罪」も、主務大臣である法務大臣自身が内容を理解していないとしか思えない答弁ぶりで、歴史を知っている"一般市民"は、よけいに不安になったままで衆議院を通ってしまいました。
5/28付毎日新聞の「時代の風」という欄で藻谷浩介氏が、「『2020年のオリンピックに向けて』という標語の下、共謀罪が制定されようとしている。他方、同じ標語の下に厚生労働省が提案した飲食店内の全面禁煙は自民党内から激しい反対を受けている。」と、その矛盾を書いています。
なぜか安倍首相は同様に、「2020年のオリンピックまでに」9条を含む憲法を変えたいと、独断的に発言して自民党内でも反論が出ているようですが、何でもオリンピックを引き合いに出すのはいかがなものでしょう?と思います。
一次阿部内閣の時には悪評にまみれてあえなく倒れた時とは対照的に、最近は野党と比べて「支持率が高いのだから」と、二言目には国会などで公言して自信に溢れているようですが、確かに「高い支持率」を与えているのは私たち国民であることは間違いありませんね…。
…さて気を取り直して、17周年のコンサートのご案内に戻ります。
7月1日(土)東京パソコンスクールの教室の1軒おいてお隣の”ミタカノイス”にて、16:30開演です。
ちなみにこのミタカノイスという部屋は実に不思議な奥深い空間で、ある時は有機野菜の八百屋やさん、ある時は印刷やさんでプログラマー、またある時は街の保健室・・・と私が陰ながらお噂している「宮沢賢治の”雨ニモ負ケズ”のような人」で、これまた弱い人たちの味方がそのテーマかと思われる人がやっている場所なのです。
この不思議な空間に、どうぞ一度おいでになってみてください。
mitakayoko
by mitakamusasino | 2017-06-01 08:00 | 三鷹校